人は若いうちは、現在を常に将来に連続する一つの過程と考え、充実感を感じながらも、同時に必ずしも一回的なものとは思わない。多くの場合、失敗は大きな幻滅であるかもしれないが、しかし何れは転機が来るかもしれないと考える。人は将来という逃げ道を取っておくことができる。そしてそれは正しいこともある。思わぬ機会がやって来て、思わぬ人生が始まることもある。しかしまた、待てど暮らせど何も起こらず、幻滅の内に時が過ぎてしまうかもしれない。ニートの人が有名な作家になったり、音楽家として成功したりすることもある。ハンディキャップを背負った人が新聞記者として成功したり、音楽家として成功することもある。しかし平均的な殆どの人の人生は、殆ど平均的なものとして終わるかもしれない。学校をほぼほぼの成績で出て、サラリーパーソンとしての普通の仕事を始め、大きな失敗もなく、かといって大きな成功もなく、無難に一生を終える。

このようないわゆる平均的で平凡な生は、往々にして当たり前すぎて残すに足りないと考えられている。映画を見たり、小説を読めば、その展開は普通平凡なものではないし、尋常ではない、記録に値するような物語が語られることを期待されている。我々の多くは恐らく自分の生は平凡であり、取るに足りないと考えているだろう。だからこそ、農民の生まれでありながら、関白になった秀吉とか、普通の生まれでありながら億万長者になったりした人の話がもてはやされる。しかしそうした特異な話しは汎用性がないことが多い。秀吉の話を聞いたとして、他の誰が関白になれるのだろうか。一体普通の家庭に生まれた我々の内の何人が億万長者になれるのだろうか。そして例えそうなったとしても、それは外的で、物質的な事でしかない。大会社の社長や有名人になったとしてもそれは何か特別な生の質を意味するのであろうか。確かに有名になったり、権力を持てば多くの人に影響を与えることはできるだろう。しかし、それは必ずしも人を幸福にするわけではない。強い政治権力や経済的な支配力は、寧ろ社会を歪めたり、階級社会を産み出し、強固にしてきた。独裁主義や極端な資本主義は現在においても世界を益々住みにくくしている。

殆どの人は、自分が平凡である事を自覚して、普通のことをする。彼らは自分たちが特別な人間だと思わないし、人より優れているとも思わない。だから控えめである。そして人との関係においても当たり前のことをするだろう。そこでは秩序が守られ、関係が保たれていくだろう。確かにそれはある意味では居心地がいいと同時に退屈であるかもしれない。しかしそれは欠陥ではない。現在における一億一千万人といわれる難民や避難民を考えれば、自らの共同体に、普通に暮らせることが当たり前というわけではないという事を考えねばならない。我々は平凡と言うことを過小評価しているのかもしれない。そもそも平凡という言葉には、ネガティブな意味が内在している。それは価値がなく、無視できるようなものと考えられている。しかしそうだとすると、我々の多くは価値もなく、意味のない人生を過ごしているということになる。そしてそこから逸脱した人の人生だけが意味のあるものなのだろうか。

しかし常識的に考えれば、そうした考え方こそがおかしい事が分かる。特異な例外を基準にして、大部分の人を平均以下として位置づけることに何の意味があるのだろう。それは特別な権力者のみを中心にして描かれてきたかつて歴史観ににている。そしてそこには大部分を占める人々の歴史は欠落している。政治権力者の影響を述べるだけでは、それは机上の空論だろう。実際の政治は権力と一般の人々からなる社会との相互作用の中で描かれねばならない。権力者の影響は一つの要素ではあるかもしれないが、それで社会全体を描くことはできない。世界は特異な人々の生を点で繫いで成立しているわけではない。プラトンやアリストテレス、仏陀やアラーやキリスト、ナポレオンやヒットラーの言ったことのみで社会はなり立っているわけではない。人間集団がいて初めてこうした人々の思想が意味を持つのである。

こうして考えれば、いわゆる普通の人の生を記録することは、決して意味がないどころか、最も価値のあることの一つであるのではないだろうか。お金持ちがどれほど贅沢な朝食を食べたかよりは、普通の人が何を食べたのか、あるいは何を食べられなかったのか、そしてなぜそうなったのかを聞いた方が遙かに普遍的な意義はある。なぜならそれはより多くの人の共感を生むからだ。むろん普通の人から逸脱した人々の話は重要である。それは多くの「普通」の人々の見えない生を映し出してくれるかもしれないからだ。なぜそうした人々が「普通でない」生を営むようになったのか。何がきっかけで人が期待した生き方から転落し、あるいは思いがけないより幸福を感じる生き方ができるようになったのか。そうしたことを我々は知ることができ、自分の生き方に新しい可能性を見出すことができるかもしれない。

とはいえ、誰の生も本来特異であり、「普通」の生などあるわけもない。誰一人として同じ生を生きるわけではないし、すべての生が独自の意味を持つだろう。しかしながらどの生も独自であるということと、それが独自の意味を持つということは別のことである。生が独自の意味を持つためには、それは意味づけされなければならない。というのも、単に生きられたままの生は、混然一体としていてまだ体をなしておらず、構成されていない。生が意味づけされるには、秩序立てが必要であり、読み手に意味が理解されなければならない。そのためには誰かの物語は、秩序立てて語られねばならないだろう。生を書き留めるということは、物語として語られるということである。しかし数えきれないほどいる見ず知らずの人の生を誰がどのように書き留めればいいのだろうか。

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